・大垣城から徒歩3分、『大垣市郷土館』へ。幕末、鳥羽・伏見の戦いでいち早く新政府軍についた大垣藩の決断、知られざる歴代藩主・戸田家の肖像画など、城の展示とはまた違ったディープな大垣の歴史に。
大垣城の天守を見学した後。
天守の券で入場できるという『大垣市郷土館』へと、足を延ばします。
お城からは、歩いてわずか3分ほどの距離。
城下町の歴史を、深く知る
『大垣市郷土館』は、大垣藩の家老であった小原家の屋敷跡に建てられています。
常設展では、大垣の原始・古代から近現代に至るまでの歴史、民俗に関する資料を幅広く展示。
大垣という土地の、記憶のアーカイブともいえる場所かなと。
館内はそれほど広くはないが故、一つひとつの展示をじっくりと見て回ることができます。
先ほどの大垣城が、「戦国・江戸」の歴史に焦点を当てていたのに対し、こちらは、より幅広い時代の人々の暮らしや文化に光を当てている印象。
幕末の決断と、歴代藩主の顔
幕末の動乱期、大垣藩はどのような道を歩んだのか。
実は大垣藩は、鳥羽・伏見の戦い後、いち早く新政府軍(薩長側)につくことを表明します。
譜代大名でありながら、旧幕府軍と袂を分かつという大きな決断。
これが結果として、大垣の城下町を戊辰戦争の戦火から守ることになったんです。
こちらは戸田家の歴代藩主たちの肖像画。
昨日も書きましたけど、戸田家は10万石を領した譜代の名門です。
初代藩主・氏鉄(うじかね)は、徳川三代に仕えた武勇の人。
その後の藩主たちは学問や文化を奨励し、藩校「致道館」を設立するなど文治政治を推し進めました。
特に、9代藩主・氏共(うじとも)は、オーストリア公使を務めるなど明治時代の外交官としても活躍。
こうして、歴代の顔ぶれを眺めていると、それぞれの時代の藩主たちの苦労や人柄が偲ばれるようですね。
水の都のもう一つの顔
おぉ、かつての大垣城の全体模型。
「水の都」らしく、幾重にも巡らされた広大な堀。
そしてその中央に、堂々とそびえる四層の天守。
現在残っているのは、このうち天守を中心としたごく一部だけというのが本当に残念です。
ん?
展示室の片隅にいきなり人の顔、少々びっくり。
これは「朝鮮通信使」の山車(だし)の付属品だそうです。
朝鮮通信使は、江戸時代に朝鮮王朝が日本に派遣した外交使節団。
その行列は大垣の城下町も通過し、当時の人々にとっては異文化に触れる一大イベントだったのでしょう。
最後に
というわけで、大垣城とセットで200円の『大垣市郷土館』。
非常にお得であり、知的好奇心を満たしてくれる空間でした。
出入り口には、「麋城(びじょう)の井戸」と名付けられた、井戸の復元も。
大垣城の別名が「麋城」であったこと、かつてはどこの家庭でも井戸が掘られていたほどの「水の都」であったことを今に伝えています。
よし、せっかくなので、この「水の都」の姿をもう少しこの目で見ていくことにしようか。
なんていうところで、続きはまた明日。
【おまけのワンポイント】
・『大垣市郷土館』の建物は、昭和を代表する建築家の一人、丹下健三の事務所で設計を担当した沖種郎(おきたねお)氏によるもの。コンクリート打ちっ放しの、モダンなデザインも、また見どころの一つです。
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