モーションウィジット

2023年1月31日火曜日

【グルメ】桑名でのランチ、刺身たっぷり海鮮丼

【この記事のポイント】
・桑名で食べた海鮮丼は刺身のボリュームが半端なくて鮮度もよし、蛤は値段が高いので止めておいた



「その手は桑名の焼き蛤」、桑名でのランチはやっぱり蛤ですかね。

そう思ってGoogleマップでお店を探したものの、どうもそれっぽいお店が見つからず。
というか、蛤が置いてあるお店は値段が高過ぎて、一人ランチで入る気がしないんですよね。

駅に向かう最中に発見した『てっぺん』、店頭に「蛤食べれます」と書いてあるのでここに入ってみようかな。
蛤に限らず、海鮮が美味そうなお店とみた。

メニューをみると、はまぐり定食は2,980円。
やっぱり贅沢過ぎるよな、これ。

海鮮丼1,500円を頼んでと、お!
追加で蛤もオーダーできるのか。

2個だと1,180円、はまぐり定食に限りなく近づいてしまう。
ランチとしては贅沢過ぎるので、やっぱり諦めることにしよう。

待つこと5分ほど、ドンと運ばれてきた海鮮丼。
ボリュームがかなりあるので、蛤を追加しなくてよかったなと。

海鮮丼、だったよな。
ご飯が見えないけど、きっと下には入っているんでしょう。

魚の種類はよくわからないものの、刺身の多さに圧倒され。
よし、それでは頂きます。

まずは赤味噌汁を一口、うん、美味い。
大根と人参、しめじにワカメと具だくさん、出汁の旨味もしっかり出ています。

こういう味噌汁を出すお店は美味、というのが経験則。
12:00を過ぎるとお客さんが続々、これがその証という構図になってきました。

どこからどうやって食べるやら、まずは気にせず鰹からいってみようか。
もう一つ白身を食べてみて、ようやく現れた白米。

鰹よりも白身の方が味が良いんだけど、この白身は一体何だろう。
白身は3種類あって、一つはスズキでもう一つが真鯛、あともう一種類がどうしてもわからず。

鮭は普通、カンパチのようにさっぱりとしたハマチは美味。
とにかく刺身を食べ進めないとご飯も食べられず、途中で刺身を食べ過ぎた、それでもまだこんなに残っているという贅沢な悩みを抱えて。

完食できた時にはほっと一安心、ご馳走さまでした。
それにしても、刺身をこんなに大量に食べることができたのに感謝です。






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2023年1月30日月曜日

【旅行】その手は桑名の桑名城、江戸の風情残る街

【この記事のポイント】
・桑名は江戸時代の大きな藩、当時の面影が残る街もなかなかの観光地



名古屋旅行の2日目、この日はまずは桑名城を観て、桑名でランチを食べることに。

9:30に妻の実家発、東山線・近鉄線と乗り継いで桑名駅には10:20頃に到着。
なんだ、こんなに近かったのか。

桑名駅から桑名城まで、寄り道せずに歩けば20分のかからずという距離です。
街の様子も見ながらと歩いていくと... ん?朝市をやっているな。

寺町通り商店街、桑名城のかつての外堀沿いにある商店街で、3と8の日には朝市を開くので三八市。
地元の方向けの商品ばかりなので何も買わずでしたけど、こんな市が5日置きに開かれるなんて羨ましい。

更に城に向かうと、お堀の跡らしき運河。
桑名は海沿いの街、堀を何重にもめぐらしてあったんでしょうね。

古地図を調べてみると、想像以上に幾重にも張り巡らされていたようです。
待てよ、そういえば幕末に幕府方で戦っていたのは会津藩と桑名藩が中心だったはず。

桑名藩主が松平容保の弟、そうそう、松平定敬だ。
ってことは、ここ桑名でも会津並みの激戦が行われた? いや、そんな話を聞いた記憶はないな。

九華公園として残っている上司の堀、かなり大規模であることがおわかり頂けると思います。
築城当時であればこの堀が相当の防衛力になったはず、でも幕末は大砲の飛距離で意味はなくなってしまっていたんでしょう。

公園なので、何箇所か橋がかかっています。
遠目には朱色で風情があるこの橋、あちこち剥げているのはまぁやむを得ずですかね。

天守各は火災で失い、その後は桑名城のシンボルであった辰巳櫓があった場所。

幕末の桑名城は、藩主が兵を率いて徳川慶喜と行動を共にしていたので、領地内には兵がほとんど残っておらず。
藩主不在のこの城を新政府軍に無血開城せざるを得ない状況で、その時にこの櫓を焼いて恭順の意を示したんだそうです。

そりゃそうだよなと思いつつ、無念に感じる士も多かったんでしょうね。

天守台の跡、焼けたのは1701年だったそう。

この城も吉田城と同様、本丸の真ん中ではなく四隅に櫓があり、その一つが天守という造りでした。
江戸時代に入ってからの城というのは、そんな造りが主流だったということなんだな。

ワンピースのチョパーの兜、槍は蜻蛉切というと、そう、これは本多忠勝像。

関ヶ原の戦い直後の1601年から、豊臣家が滅亡した後の1617年まで、桑名城は本多家の城だったんです。
当時は豊臣勢力の押さえとして桑名は要地だったので、四天王一の武功の家である本多家をここに置きたかったというのが家康の心理だったんだと。

城の周辺を歩こうとして、松阪牛の『柿安』のビル。

へぇ、『柿安』の本社って桑名にあったとは知らなかった。
この地が三重県産業の窓口の役割だったということの現れなんでしょう。

七里の渡し跡、江戸時代の東海道の宿場です。

熱田からここまで船で渡るというのが当時のルートで、渡し船の所要時間は4時間ほどだったとのこと。
新幹線は関ヶ原を廻る現代とは幹線が異なり、桑名が栄えていた当時を知ることができる史跡でした。

マイナーな観光地ながらも、旧東海道の桑名にも魅力あり。
歴史好きの方は訪れてみてください。




桑名城址
三重県桑名市吉之丸5-1
0594-24-1361
出入り自由

2023年1月29日日曜日

【グルメ】パリッとふっくら、名古屋の鰻はいい焼き加減

【この記事のポイント】
・名古屋の美味なる鰻をご馳走になり、姪っ子とその子供とオンライン通話もえきたという楽しい夕べ




名古屋の妻の実家にお邪魔すると、いつもご馳走して頂くのが『新甫』の鰻。
毎回なので申し訳ないと思いながらも、美味しい鰻を食べられるというのは心から嬉しいもの。

店舗は池下にあり、過去何回か行ったこともあるんですけどここ最近は宅配。
こんな岡持ちに入れて持ってきてくれるという風流さもまた良いものです。

以前にも書きましたけど、このお店は刺身も美味しいんですよ。
新鮮なので艶っ艶、色が半端なく綺麗ですね。

ではではと。
皆さん健康で再会できたことを祝して乾杯!

まずは肝吸い、これがまたいい出汁で美味い。

そして珍しく酢の物もあるけど... あ、これはもしかして家で作っておいてくれたものか。
口をさっぱりさせるのに嬉しい一品。

前回は鰻を最後に食べたんですけど、蒸されて表面のパリッとした食感が失われてしまったんですよね。
それはそれでも美味しいものの、やはりあの食感を楽しみたいなと今回はすぐに鰻もオープン。

1/4をガッツリと食べると、やっぱり美味い。
甘めのタレ、表面のパリっの後に柔らかい身がフワッと。
ご飯に染みたタレの甘さがまた別の美味しさ、鰻の力強さと甘めのタレは日本酒にも負けず。

一旦刺身に戻っても違和感はなく、しっかりと魚の旨味を感じるのは品がいいせいなんでしょう。
鰻重は最後というのは先入観、そんなことに気づかせてくれた食事になりました。

いやぁ、美味しかった〜
ご馳走さまでした。

食後はウィスキーとジンを飲みながら、義理の兄夫妻との暫しの語らい。
碧と翠って、お二人のお孫さん(*)の名と音が同じなんです。
(*)姪っ子の子って何ていうんだか、忘れてしまったな...

呑んでる途中でFacetime通話があり、碧ちゃんと翠くんにも、お母さんのRちゃん(*)にもリモートで会うことができたのは最高の幸せでした。
(*)姪っ子のRちゃんは小さい時から知っているので、立派なお母さんになっているのに感慨一入

いやぁ、いい一日を過ごすことができたことに感謝。






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2023年1月28日土曜日

【旅行】徳川家康生誕の地、岡崎城はなかなか立派

【この記事のポイント】
・苦労人徳川家康が生まれた岡崎城、見どころ多く大河ドラマ放映の今年は人気の観光地になるだろうなと



岡崎城といえば、徳川家康が生まれた城として名が通っていますね。

南を流れる乙川と西の伊賀川に挟まれ、更に西には矢作川も流れるという舌状台地に建つ城。
徳川家康の祖父、松平清康の代にここに居城を移したんだそうです。

松平清康は25歳で家臣に討たれるという短命、その子供、つまり家康の父も同じような年齢で亡くなっているというのは、松平家が苦境の歴史のなかにあったということの現れ。

大手門を潜って中に入ると、ぱっと目に入ったのは「家康公と背くらべ」のパネル。

へぇ、159cmしかなかったのか。
いや待てよ、栄養状態が良くないので平均身長も低いはず。

調べてみたら平均は156cm、巨漢のイメージがある武田信玄は... うわっ153cmか。
細くて小柄かと思っていた織田信長は170cmと、ドラマで見るイメージと随分と異なるものなんだなと。

あ、三方ヶ原の戦いで負けた後に描かせたという絵の石像、脱糞事件で有名なあの負け戦ですね。
そう思うと、何だか近付きたくなくなるもの。

二の丸と本丸との間にはかなり深い空堀があったようで、今日でも当時の様子を見ることができます。
鎧を着たまま飛び降りることはまず不可能、後ろ向きに下る間に背中から射られるという算段か。

天守は1959年に再建されたもの、中は展示施設になっています。
私が訪れた時は改装のため休館中でしたけど、1/21(土)にはオープンしているはず。

見にくいですけどアラモの碑、西部劇の「アラモの砦」のアラモです。
一体何の関係があるんだろうと説明板を読んでみると、以下のようなことが書いてあります。
・この石碑は岡崎出身の地理学者志賀重昂氏が建立したもの
・アラモの戦いと長篠城の戦いがよく似ていると考えて、1914年に岡崎と長篠の石でアラモ砦とここに記念碑を建立した

アラモの戦いってどんなんだったっけ?
・テキサス独立戦争に際し,テキサス人守備隊がたてこもった僧院を3,000人のメキシコ軍が包囲
・援軍を求めて友軍の下に走ったポナムという青年がいたが、援軍は得られず
・十数日の攻防の末、守備隊187名が戦死して僧院は陥落

ポナムと鳥居強右衛門の逸話と似ているということのようですけど、援軍が来て防衛に成功した長篠とは結論は真逆だった。

この像は... 迫撃砲?
よく見ると、「三河花火発祥の地」と書いてあります。

江戸時代になってからは火薬や硝石の採取は三河のみに限定、これが平和利用されるようになって花火になっていったんだとのこと。
そんな歴史があったとは知らずでした。

さて、ほぼ壊れたカメラでの撮影も無事完了。
今日の観光はここまでにして、名古屋の妻の実家に向かうべく名鉄線に乗ろうというところで、この記事はお終い。




岡崎城
愛知県岡崎市康生町561−1
0564-22-2122
城内の出入りは自由

2023年1月27日金曜日

【旅行】徳川四天王って? どんな功績があったの?

【この記事のポイント】
・岡崎に到着、徳川四天王像で彼らの功績を改めて知る



豊川稲荷の次、目ざすは岡崎城。
電車のルートを確認すると、名鉄で東岡崎にというのがいいんだなと。

国府(読みは「こう」)駅で乗り換えか。
一つ手前の八幡という駅で大勢乗ってきて、荷物で席を専有するのは申し訳ないなと膝の上に乗せた時…ガツン!

あ゛っ、カメラを落としてしまった!
と...

コロコロコロ… うぉっ、レンズが外れて転がり始めたぞ!

「はい、どうぞ。」
転がった先に座っていた高校生くらいの女の子が丁寧に渡してくれましたけど、一体何が起きたんだか理解できず…

一緒に旅行している長年の友の首がもげた、それぐらいにびっくらこいた一幕でした。

確認してみると、マウントのレンズ側のプラスチック部品が見事に折れています。
長年使っているので劣化していたのか、それはそれで仕方ないんですけどね。

今回は替えのレンズは持ってきておらず、この後の写真どうするんだ。
スマホで撮りゃいいんですけど、使い慣れたデジカメ一眼レフと同じようにはいかないんだよな…

東岡崎に到着、とりあえずは乙川を目指します。

ここでデジカメ一眼レフを取り出し、外れたレンズを手で押さえながら1枚。
あ、撮れた。

しっかりと定位置に固定すれば、シャッターを切ることができる。
よし、とりあえず今日はこれで行くしかないな。

ん? 中学生の集団飛び込み… いや。

何やら歌い出した様子をみると、何かの記念で写真を撮っているらしい。
青春の一コマって感じで微笑ましいですね。

岡崎城に近づいていくと、石像が登場。

ワンピースのチョッパーが被る帽子のような兜、槍は蜻蛉切。
これは見紛うことなく本多平八郎忠勝、徳川家最強の武勇を誇る武将。

次に出てくるのは...え、太鼓?

家康が大敗した三方ヶ原の戦い、開け放たれた城門から中に攻め入ろうとした武田軍を退散させたのは酒井忠次の太鼓だった。
そんな逸話があるそうで、武田軍は奇計が巡らされていると勘違いしたんだとか。

高札を持って立たされている武将は誰だ。
え? 榊原康政?

徳川四天王の一人として名前はよく知っているものの、そういえば何をやったんだか記憶していないなと。
説明板を読んでみると、小牧・長久手の戦いに際し、秀吉を非難する檄文を書いたのが榊原康政だったんだとか。

激昂した秀吉、榊原康政の首を獲った者には褒美を与えるとお触れ。
この戦いは退却すると見せかけた徳川軍を追った豊臣軍が包囲殲滅されて決着しているので、この檄文が効いたという見方もあるんでしょうかね。

「十万石の檄文」と書いてあったので、榊原康政はこれで十万石を得たということなんだなと。

ってことは、残るは井伊直政しかいないですよね。

赤備えを率いた武功だけでなく、外交でも手腕を発揮した秀逸な武将ながら、関ケ原の戦いで受けた傷が原因で亡くなったんだよな。
へぇ、42歳とまだ若かったんだ。

なんて考えながら... あれっ、井伊直政が跨る馬は首も足もないぞ。

改めて本多忠勝像の写真をみるとこちらの馬も同様でしたけど、本多忠勝の像では気にならなかったのはなぜか。
像全体のバランスで、視線が後ろを向く本多忠勝、井伊直政は前を向いているからなんでしょうか。

なんていう道中を楽しみながら岡崎城に到着。
内部の様子については、また明日の記事でご紹介します。




【おまけのワンポイント】
・今年の大河ドラマは『どうする家康』、今回の岡崎城観光もこれに刺激を受けたものでしたけど、鎌倉の次は岡崎が人気観光地に? なるのかなぁ。

2023年1月26日木曜日

【旅行】お稲荷さんなのに寺? 豊川稲荷はややこしい

【この記事のポイント】
・豊川稲荷はさすが全国に名が通るだけの広さ、本殿のデカさは圧巻



さて、ランチも済ませたところで、豊川稲荷にお詣りしようか。

有名な割には、どこにあるかご存知ない方もいらっしゃるのではという豊川稲荷、私も今回の訪問で初めて知りました。

創建は室町時代の1441年、当時は塩尻に抜ける伊那街道の山岳部への入り口。
今日の東京を中心として、途中をすっ飛ばして名古屋・大阪まで行く東海道というのとかなり様相が異なっていたのでしょう。

稲荷なので神社かと思いきや、正式名称は圓福山妙嚴寺というお寺。
お寺なのに鳥居があるからややこしいんですよね。

明治時代の神仏分離の際に鳥居は撤去され、戦後に再び設置されたものなんだそう。
ただし、鳥居が撤去された後も「豊川稲荷」の通称は使われ続けていたとのことです。

今川義元が寄進した山門、豊川稲荷最古の建造物。

今川義元は桶狭間で戦死、首を獲られた武将というのが一般的なイメージではあるものの、「海道一の弓取り」と呼ばれる名将だったというのもこの門を見れば想像できると思います。

本殿のデカさ、参拝客と比べるとおわかり頂けるんではないかなと。
1908年から20年以上かけて建てられたものです。

建物の造りに威圧感、異世界感があり、ここに参拝するとご利益ありそうというのは、写真からもご想像頂けるのではないでしょうか。

狛犬の代役でお狐様、お稲荷さんなので違和感はないですね。
これも神秘感を増してくれる重要な構成要素なんですよ。

本殿は総門からみて左手奥、右手奥には奥の院があるという造り。
本殿だけでも見応えはあるものの、奥の院はまた異なる風情があるんです。

千本幟の幻想的... はちょっと言い過ぎか。
奥に進んでいくと慶雲門、彫刻が美しい品のいい造り。

奥の院の背の高い木に隠されているような。
大本殿の新築に伴って移設された元の拝殿だそうですけど、ここに移すのは大変だったんじゃないかな。

ここだけ空気感が異なるような印象、パワーが散らずに封じ込まれているんですかね。
さすがは日本三大稲荷の一つ、見どころは数多くありました。

最後に豆知識、ヤマサちくわは豊橋名物...
あれっ、ヤマサって醤油じゃなかったっけ?

ネットで調べてみたら醤油とちくわの会社は無関係でしたけど、いずれも江戸時代創業の伝統ある企業でした。
ここのちくわは美味しいので、お土産にも良いと思います。

さて、次の目的地は岡崎というところで、続きはまた明日。




豊川稲荷
愛知県豊川市豊川町1
053-385-2030
参拝時間 5:00〜18:00