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2023年1月30日月曜日

【旅行】その手は桑名の桑名城、江戸の風情残る街

【この記事のポイント】
・桑名は江戸時代の大きな藩、当時の面影が残る街もなかなかの観光地



名古屋旅行の2日目、この日はまずは桑名城を観て、桑名でランチを食べることに。

9:30に妻の実家発、東山線・近鉄線と乗り継いで桑名駅には10:20頃に到着。
なんだ、こんなに近かったのか。

桑名駅から桑名城まで、寄り道せずに歩けば20分のかからずという距離です。
街の様子も見ながらと歩いていくと... ん?朝市をやっているな。

寺町通り商店街、桑名城のかつての外堀沿いにある商店街で、3と8の日には朝市を開くので三八市。
地元の方向けの商品ばかりなので何も買わずでしたけど、こんな市が5日置きに開かれるなんて羨ましい。

更に城に向かうと、お堀の跡らしき運河。
桑名は海沿いの街、堀を何重にもめぐらしてあったんでしょうね。

古地図を調べてみると、想像以上に幾重にも張り巡らされていたようです。
待てよ、そういえば幕末に幕府方で戦っていたのは会津藩と桑名藩が中心だったはず。

桑名藩主が松平容保の弟、そうそう、松平定敬だ。
ってことは、ここ桑名でも会津並みの激戦が行われた? いや、そんな話を聞いた記憶はないな。

九華公園として残っている上司の堀、かなり大規模であることがおわかり頂けると思います。
築城当時であればこの堀が相当の防衛力になったはず、でも幕末は大砲の飛距離で意味はなくなってしまっていたんでしょう。

公園なので、何箇所か橋がかかっています。
遠目には朱色で風情があるこの橋、あちこち剥げているのはまぁやむを得ずですかね。

天守各は火災で失い、その後は桑名城のシンボルであった辰巳櫓があった場所。

幕末の桑名城は、藩主が兵を率いて徳川慶喜と行動を共にしていたので、領地内には兵がほとんど残っておらず。
藩主不在のこの城を新政府軍に無血開城せざるを得ない状況で、その時にこの櫓を焼いて恭順の意を示したんだそうです。

そりゃそうだよなと思いつつ、無念に感じる士も多かったんでしょうね。

天守台の跡、焼けたのは1701年だったそう。

この城も吉田城と同様、本丸の真ん中ではなく四隅に櫓があり、その一つが天守という造りでした。
江戸時代に入ってからの城というのは、そんな造りが主流だったということなんだな。

ワンピースのチョパーの兜、槍は蜻蛉切というと、そう、これは本多忠勝像。

関ヶ原の戦い直後の1601年から、豊臣家が滅亡した後の1617年まで、桑名城は本多家の城だったんです。
当時は豊臣勢力の押さえとして桑名は要地だったので、四天王一の武功の家である本多家をここに置きたかったというのが家康の心理だったんだと。

城の周辺を歩こうとして、松阪牛の『柿安』のビル。

へぇ、『柿安』の本社って桑名にあったとは知らなかった。
この地が三重県産業の窓口の役割だったということの現れなんでしょう。

七里の渡し跡、江戸時代の東海道の宿場です。

熱田からここまで船で渡るというのが当時のルートで、渡し船の所要時間は4時間ほどだったとのこと。
新幹線は関ヶ原を廻る現代とは幹線が異なり、桑名が栄えていた当時を知ることができる史跡でした。

マイナーな観光地ながらも、旧東海道の桑名にも魅力あり。
歴史好きの方は訪れてみてください。




桑名城址
三重県桑名市吉之丸5-1
0594-24-1361
出入り自由

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