・『にほんまつ城報館』での予習を終え、いよいよ霞ヶ城(二本松城)の本丸へ。車でショートカットしつつも最後は徒歩で登城。平成の大改修で蘇った壮大な石垣、本丸から望む安達太良山の絶景、そして戊辰戦争の悲劇の痕跡に二本松の歴史の重みを実感。
『にほんまつ城報館』で霞ヶ城の歴史を頭に叩き込んだ後。
いよいよ本丸へと登るわけですが、ここで一つ選択を迫られます。
麓から歩いて登るか、それとも車で行くか。
標高差は120mほど、片道20分程度というので、大した道のりではなし。
車嫌いの息子が一緒だったら、間違いなく「歩こう」の一言でしょう。
とはいえ今回は一人旅、基本は時間に余裕を持たせること。
せっかく車があるのだからと、ここは文明の利器を使わせてもらうことにしました。
本丸へ、最後の登城路
本丸にかなり近い駐車場らしきスペースまで、車で一気に登ります。
地図を見るとまだこの先も車で行けるようではあるものの、さすがにそれでは味気ない。
よし、ここからは少し歩くとしましょうか。
特に案内標識はありませんでしたが、位置関係からしてこの階段を登れば間違いなく本丸だろうという道を発見。
ここを行ってみよう。
最近、山登りをするようになったおかげ、こういう急な登り坂も以前ほど苦にならなくなったように思います。
平成に蘇った、壮大な石垣
階段を登りきると、そこは本丸跡。
霞ヶ城は室町時代に畠山氏によって築かれ、その後、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏と、めまぐるしく城主が変遷。
江戸時代に丹羽氏が入城して、現在見られるような近世城郭として整備されたんですよね。
まさに奥州の歴史の縮図のような城。
本丸の石垣は見事。
これを本格的に整備したのは、二代藩主・丹羽光重の時代です。
この石垣も単なる防御施設としてだけでなく、藩主の権威を示す象徴としての役割も担っていたのでしょう。
実はこの石垣、平成に入ってから約2年・総事業費5億3千万円をかけて修築復元されたもの。
もともとは市民の要望を受け、鉄筋コンクリートで天守閣を再建する計画があったそうです。
事前の発掘調査で天守閣が存在した痕跡が見つからず、代わりに崩壊したと思われていた長さ約80mにも及ぶ貴重な石垣が発見されたとのこと。
この歴史的な発見を受け、市は天守閣の建設計画を白紙に戻し、文化財として石垣を修復・保存するという英断を下したんだそう。
本丸から望む、絶景と悲劇の痕跡
階段を登った先は枡形虎口。
敵を直進させず、三方向から攻撃できるように設計された、防御の要です。
この石垣の高さといい、複雑な構造といい、最後の最後まで徹底抗戦することを意識した実戦的な造りだなと。
本丸の標高は345m。
眼下には二本松の街並みが一望できて、これもなかなかの絶景ですね。
曲輪の片隅にひっそりと建っているのは、「丹羽和左衛門・安部井又之丞 自刃の碑」。
丹羽和左衛門は戊辰戦争の際、二本松藩の城代家老として城の守りを指揮。
新政府軍の猛攻の前に落城は必至と悟り、勘定奉行の安部井又之丞とともにこの本丸で見事に自刃して果てたそうです。
本丸から西に目をやれば、二本松のシンボル安達太良山。
この日は残念ながら雲がかかって山頂までは見えませんでしたけど、それでも雄大な山容を望むことができました。
高村光太郎の詩集「智恵子抄」にも詠われた、日本百名山の一つ。
その美しい姿は、昔も今もこの城から見えていたのでしょう。
この石垣、上から見下ろすと、その高さに改めて足がすくみます。
通路は狭く、反対側も切り立った崖。
こんな場所を攻め上がってくる敵、上から鉄砲で狙い撃ちにしたらひとたまりもなかったでしょうね。
珍発見?トイレカーとの遭遇
本丸近くの駐車場、一台の車が停まっているのには気づいていました。
近寄ってみると、なんとこれは「トイレカー」、これまで見たことがない形をしています。
一体、どんな構造になっているのか。
せっかくだから利用してみたい気もしましたけど… あいにく尿意も便意もなし。
珍しいものがあったと、写真に収めるだけにしておきました。
最後に
というわけで、霞ヶ城の本丸探訪。
平成の大改修によって蘇った見事な石垣の姿に、ただただ圧倒されました。
そしてそこから見える絶景と、戊辰戦争の悲劇の記憶。
この城が、長い歴史の中で、多くの人々の想いとともにあったことを、肌で感じることができたなと。
さて、それじゃ少し早めのランチにするとしようなかな。
というところで、続きはまた明日。
福島二本松市霞ヶ城公園
〒964-0904 福島県二本松市郭内3
出入り自由
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