・戊辰戦争における二本松藩の悲劇は「二本松少年隊」。その勇ましい銅像と、子を戦場へ送り出す母の像の対比に胸を打たれます。箕輪門に残る350年の松、城代の壮絶な死の痕跡など、霞ヶ城に刻まれた幕末の動乱の記憶を辿りました。
『にほんまつ城報館』で霞ヶ城(二本松城)の歴史を学んだ際、私の心に深く突き刺さったのが幕末・戊辰戦争における二本松藩の悲劇。
その象徴ともいえるのが、「二本松少年隊」の存在です。
戦場に散った、若き魂
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加した二本松藩。
新政府軍が城下に迫る中、兵力不足を補うため藩は12歳から17歳までの少年たちで構成される部隊を急遽編成。
これが「二本松少年隊」です。
彼らは大人たちに交じって、圧倒的な兵力と火力を誇る新政府軍を相手に勇敢に戦いました。
故郷を守るため、大砲の煙の中にその若い命を散らせていったんです。
その勇ましい姿が今は銅像となり、城の玄関口である箕輪門の前に飾られています。
その勇ましい少年たちの像の裏手には、針仕事をしているような淋しげな母の像。
死地であると分かっていながら、我が子を戦場へと送り出さねばならなかった母の心境。
その断腸の思い、子との別れの寂しさを思うと胸が締め付けられ、涙が出そうになります。
城門に刻まれた、歴史の記憶
二本松城の正門にあたる「箕輪門」。
現在の門は、昭和57年に江戸時代の絵図や古写真をもとに、忠実に復元されたものです。
この堅固な門もまた、戊辰戦争の際には激しい攻防の舞台に。
門の梁には、当時の弾痕も残されているんだとか。
まさに歴史の証人ですね。
『にほんまつ城報館』で見た、二本松少年隊を再現した映像。
その勇猛果敢な戦いぶりも、親の立場で考えるとやるせない気持ちになります。
彼らと刃を交えた、新政府軍の兵士たちの心情はどうったたのか。
自分の子どもや弟と歳の変わらない少年たち、それでも敵だからと銃で撃たねばならなかった。
その心の傷は、いかばかりだったことでしょう。
二本松少年隊の隊士は、総勢62名。
そのうち戦いで命を落としたのは、隊長格の木村銃太郎を含め25名にものぼると言われています。
最年少はわずか13歳。
彼らの名前と年齢が記された一覧を前に、ただ言葉を失っていました。
こちらは城代家老であった内藤四郎兵衛が戦死した場所。
彼は落城を悟ると城に火を放ち、敵兵が目前に迫る中、箕輪門を開け放って群がる新政府軍中に突撃したと言われています。
藩を守る責任者としての、最後の意地だったんでしょうね。
静かに歴史を見つめる、樹齢350年の松
箕輪門の北側、石垣の上には、見事なアカマツの古木が何本も根を張っています。
その多くは、傘状に枝を広げ、長い枝を石垣の下へと垂らしている。
これらの松は、もともと土塀の代わりに植えられたものと考えられているそう。
江戸時代の記録から推察すると、その樹齢は、なんと350年を超えるとか。
戊辰戦争の、あの悲劇も、この松は、静かに見つめていたんだなと。
最後に
この階段を登っていくと、先ほど訪れた、本丸跡へとたどり着きます。
平成の大改修で蘇った壮大な石垣、そこから望む安達太良山の雄大な景色。
そして随所に残る、戊辰戦争の悲劇の痕跡。
この霞ヶ城は、美しさと哀しさを同時に併せ持った非常に印象深い城でした。
いや〜、素晴らしい城だったな。
さて、そろそろ郡山へと戻るとしようかというところで、続きはまた明日。
【おまけのワンポイント】
・少年兵の悲劇は会津の「白虎隊」が有名ですけど、二本松少年隊も壮絶なものだなと実感。歴史好きの方にはオススメの観光地でした。
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