・二本松から郡山へ移動、明治維新後、宿場町から東北有数の大都市へと変貌を遂げた郡山の発展の秘密を探るべく、『郡山市開成館』へ。猪苗代湖から水を引いた「安積疏水」という壮大な国家プロジェクト、原野に挑んだ入植者たちの暮らしの痕跡に近代日本の夜明けを感じました。
二本松の霞ヶ城探訪を終え、この日の宿がある郡山市へと戻ってきました。
郡山といえば、お城があったっけ?
今回の旅行の前にそんなことを考えてしまいましたけど、それは奈良の大和郡山との勘違い。
福島の郡山は、江戸時代には奥州街道の宿場町として栄えた場所なんだそうです。
とはいえ、当時の人口は、わずかに5,000人程度だったとか。
今や仙台市に次ぐ東北地方2番目の大都市へと発展を遂げている郡山、人口は32万人(2025年9月現在)もいます。
一体、この街に何があったのんだろうか。
郡山発展の礎、『開成館』を訪ねて
明治維新後、郡山が爆発的な発展を遂げるきっかけとなった一大開発事業。
その歴史を詳しく知ることができるのが、ここ『郡山市開成館』です。
開成山公園の西側に、ひっそりとしかし確かな存在感を放って建っています。
郡山発展の起爆剤となったのは、「安積疏水(あさかそすい)」の開削事業。
約40km西にある猪苗代湖から、奥羽山脈を貫くトンネルを掘って水を引く。
これで水利に恵まれなかった安積原野を一大穀倉地帯へと生まれ変わらせるという壮大な国家プロジェクトなんですよね。
オランダ人技師ファン・ドールンの指導のもと、当時の最新土木技術を駆使。
延べ85万人もの人々が動員されたこの大事業は、日本の近代化を象徴する出来事の一つです。
この水路が郡山の農業、そして工業の発展の礎となったんです。
原野に挑んだ、入植者たちの息遣い
『安積開拓入植者住宅(旧小山家)』は、明治15年、愛媛県の旧松山藩士族たちが入植した際の代表的な住宅の形を今に伝えています。
原野を開墾し、未知の土地で新たな生活を始める。
この質素ながらも、力強い造りの家から、当時の入植者たちの厳しいながらも希望に満ちた暮らしぶりが、目に浮かぶようです。
こちらは鳥取からの入植団の副頭取であった、坪内元興の住宅『旧坪内家』。
当時、政府が定めた規格住宅の中でも最上級の「一号家」の雛形をもとに建てられたという立派な建物。
黒田清隆や森有礼といった明治政府の重鎮たちも、この地を視察した際には休憩したという記録が残されています。
擬洋風建築の傑作と、その数奇な運命
こちらが敷地の中心に建つ『開成館』本体。
残念ながら2021年の福島県沖地震で被害を受け、現在も復旧工事中でした。
この建物は、明治7年に安積開拓の拠点となる「福島県開拓掛」が置かれた擬洋風建築の傑作だそう。
明治天皇の行在所(宿泊所)としても使われ、一時は国の史跡にも指定されていましたが、戦後は市営住宅として使われるなど、荒廃した時期もあったんだそうです。
安積開拓の司令塔と、歴史の証人たち
安積開拓は、戊辰戦争で敗れた旧武士たちの士族授産、そして食料増産という二つの大きな目的を背負っていたんだそう。
全国から、多くの旧藩士たちが刀を鍬に持ち替え、この原野の開拓にその身を投じたんですね。
新しい時代を自らの手で切り拓こうとした人々、その情熱の物語ここにあり、なんだなと。
開拓掛の職員用官舎であった、『旧立岩一郎邸』。
安積疏水の着工式に出席した、伊藤博文や松方正義といった、明治の元勲たちがこの官舎に宿泊したと伝えられています。
庭に残る石組みの給水口が、当時の暮らしを静かに物語っていました。
最後に
というわけで、郡山発展の歴史を巡る観光。
一つの疏水事業がいかにして都市の運命を変え、多くの人々の人生を動かしていったのか。
その壮大な歴史のドラマに、ただただ圧倒されました。
「郡山=ただの大都市」じゃない。
「近代日本の夜明けを象徴する、開拓者たちの魂が宿る街」だった。
そんなことを学んだ後、次の観光地に向かおうというところで、続きはまた明日。
郡山市開成館
〒963-8851 福島県郡山市開成3-3-7
024-923-2157
営業時間 10:00〜17:00
閉館日 月曜日
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