モーションウィジット

2023年7月21日金曜日

【旅行】島原の乱の激戦地、原城址で祖先を偲ぶ

【この記事のポイント】
・世界遺産に登録されている原城址、大規模な城がそのまま残っていて見応えあり



さて、次は今回の旅のメインの一つである原城址。

南島原市に入ると、国道沿いにデッカい像が座り込んでいます。

南島原市役所の前、この人は誰だろう。
地元出身の有名な力士がいたのかな。

調べてみると、「みそ五郎」というこの地にいたという伝説がある巨人。
朝起きると雲仙岳に腰を下ろし、有明海で顔を洗っていた。

ん?どっかで聞いたことある節だな... お、ダイダラボッチ!
筑波山に腰掛けて休んでいたので山頂が凹んだ、霞ヶ浦で足を洗った。

話が妙に似ていますけど、日本各地に巨人伝説が残るのは何故なんでしょう。

さて、原城址に到着。
駐車場は大手口にあり、ここから先は徒歩。

本丸標高は31m、長辺1km短辺500m弱という大城郭で、駐車場から本丸まででも750mほどあるんです。

世界遺産に登録されたからなのか、城内には駐車場はないんですよね。
訪れる方はご注意ください。

原城が築城されたのは1496年、当時の領主は有馬家で、周囲4キロの三方を有明海に囲まれ難攻不落の天然の要害。

江戸時代になり、有馬家が去った後に松倉氏が入封し、一国一城の令で廃城に。
1637年の「島原・天草一揆」で一揆側が籠城、その数は37,000人と言われていますけど、この大城郭なら収容は可能だったのは間違いない。

とはいっても多勢に無勢、城はわずか3ヶ月で陥落し、一揆勢は皆殺しにされたといわれています。

そもそも籠城というのは、援軍が来るまで持ちこたえるという作戦。
120,000人を超える幕府軍に包囲され、援軍を誰と期待していたんだろうか。

江戸時代になってお取り潰しとなった藩の浪人や、他の地のキリシタンなども多数いたんでしょうけどね。
彼らじゃ組織だって戦うことはできないことは明白、籠もったキリシタンは端から死を覚悟していたんだろうか。

本丸跡に立つ天草四郎の像。
彼は対岸の天草で一揆を起こしていて、富岡城代を討ち取ったり、城も落城寸前にまで追い込むという武功を挙げています。

天草四郎は、関ケ原で敗れて斬首された小西行永の家臣、益田家の子といわれていますけど当時はまだ10代。
実質的な指揮は父の益田甚兵衛や他の浪人だったと言われており、この地の戦いではキリシタンだけでなく、戦国時代の戦闘を経験した老兵が活躍したということのようです。

討伐軍には、水野勝成軍として私の祖先も参戦しているんです。
水野勝成は当時75歳、徳川家康の家来として歴戦を戦ってきた経験を買われてのことだったそうで、おそらく祖先も相当の歳での参戦だったんじゃないかなと。

親と私と息子と揃って、そんな祖先と同じ地に来ることができたというのは感慨深いものです。

駐車場に戻ろうと歩きだし、この写真を撮った時に左手でガサガサという音。
その方向を見ると、丸々太った蛇が斜面を転がり落ちてきていて、思わず声を上げてびっくり。

おそらく蛇には攻撃の意図はなく、私を見て驚いて転げ落ちてしまったということなんでしょうけど...
あの不意打ちには驚いた。

これも原城跡のいい思い出、ということになるんでしょうね。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

住所判 「くまモン」
価格:1,980円(税込、送料別) (2023/7/12時点)




原城址
長崎県南島原市南有馬町
0957-73-6706
出入り自由

0 件のコメント:

コメントを投稿