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2023年7月6日木曜日

【観光】歴史に揉まれた前橋城、往時の面影はごく僅か

【この記事のポイント】
・ほぼ跡形のない前橋城、それでも街中を歩いて遺構を巡るのもまた楽しい



前橋城を観る前に、歴史を振り返ってみましょう。

まず、この地に城ができたのは室町時代中期。
厩橋と言われたこの地、箕輪城を本拠地とする長野氏の支族がここに城を構えていたとのこと。

その後、1551年には小田原の北条氏に属し、1560年に上杉謙信に攻め落とされて関東進出の足掛かりに。

1563年に再び北条と甲斐武田の連合軍に攻め落とされ、以降は上杉・北条・武田と領主が変わった後、武田氏を滅ぼした織田勢の滝川一益が城主になったのが1582年。
ところが滝川一益は本能寺の変後に北条氏に敗れて撤退、厩橋城は再び北条氏の支配。

1590年の豊臣勢による小田原征伐の際には浅野長政が攻め落とし、その後は関東に領地を移された徳川家康の領土となったという目まぐるしい変化。

江戸時代には、前の記事に書いた酒井雅楽頭家が1749年まで、以降は越前松平家の居城に。
ところが利根川の氾濫が激しいために城は放棄され、松平家の本拠地は川越に移転。

その後1830年代、利根川の改修によって流れが西に移り、再び城が築かれたのが1867年と明治維新の1年前。
わずか4年後に廃藩置県で城は取り壊されてしまったんだそうです。

この復元図は、1867年に築かれた前橋城を表したもの。
総面積52万平方メートル、単純に平方根で721m×721mにも及ぶ広大な城があった、ということか。

城はすっかり壊されてしまい、現代でも残っているのはごく僅かな遺構のみ。

その一つがこの車橋門の石垣で、地図を頼りにしなければならないような市街地にひっそり。
忘れられたように残っています。

本丸だった場所は群馬県庁に。
前橋にこんなに高い建物は他になく、街のシンボルとなっているという点は今昔変わらずなのかな。

廃藩置県の際、群馬県町として使われていたのが本丸御殿だったそう。
この建物も、昭和初期老朽化のため取り壊されてしまったんだそうです。

群馬県警察本部横にある土手、これは前橋城の土塁。
細い階段を登れるようになっていて、ここには碑があるのか。

狭い土塁の上、碑は立派ではあるものの、往時の姿を一切感じることができず。
今から復元することは不可能ですけど、勿体ないですね。

もう一箇所、前橋公園の一角にあるこの崖も土塁ですね。
利根川の流れの近くにあるので、おそらくは川に削られて自然にできたものかなと。

前橋城を幾度も破壊してきた利根川、ここには信玄堤が築かれていました。
完成したのは1897年とのことで、信玄堤が明治になっても築かれていたとは知らなかった。


幕末に建てた城を残しておけば、今時なら海外からの観光客も来るようなメジャーな場所になっただろうという前橋。
そんな惜しさを感じながらのウォーキングで、やっぱり私はオタクだということを実感。




【おまけのワンポイント】
・「前橋市の歴史都市づくりが2023(令和5)年から一気に加速する。前橋公園内に前橋城をイメージした建造物を造る計画が始動。本丸や天守閣が候補に挙がっている。JR前橋駅に名駅舎として親しまれた旧前橋駅舎を一部復元する計画も浮上している。」なんていう記事が前橋新聞のmebukuに。今後に期待したいですね。

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