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2022年6月27日月曜日

【旅行】桶狭間古戦場、ボランティアガイドさんの解説で巡る

【この記事のポイント】
・桶狭間古戦場、ボランティアガイドさんに案内して頂いて巡ったところ、全体像がつかめてわかりやすかったなと



名古屋旅行最終日、この日は13:41の新幹線で帰路につくのでさて、それまでに巡れるところに行こう。

そうだ、位置ゲーの「ニッポン城巡り」で新幹線からでは落とせない城が鳴海城。
これを取るついでにと、桶狭間と有松を観光することにしました。

桶狭間・有松に行くには、一旦名古屋駅まで出て名鉄線に乗るのが定石なんです。
でも地図をよく見ると、桜通線と名鉄線が近接しているところがある。

調べてみると桜通線の桜本町駅と名鉄線の桜駅が徒歩5分ほどの距離、よし、ここで乗り換えることにしようか。

名鉄線に乗りながら鳴海駅近くで鳴海城をゲット、そのまま中央競馬場前駅まで乗って下車。

駅名でもある競馬場は駅の北側にあるようで、人の流れはそちらに。
私だけ一人、人気の全くない南口に向かいます。

駅から2分ほどのところにあるのが「桶狭間古戦場伝説地」、桶狭間は改めてご説明するまでもないですよね。

桶狭間の合戦で今川義元の本陣がどこにあったか、これは諸説あるようです。
そんななか、この「桶狭間古戦場伝説地」が唯一の国指定史跡となっている地、まぁ正確性はともかく、ここで今川義元が討ち取られたと信じて巡ってみることにしましょう。

おぉ、正にそう書いてある碑があるじゃないですか。
近くでボランティアガイドさんが説明板等を準備していて、不思議そうに石碑を観る私に話しかけてきてくれました。

「おはようございます! 今日はどちらからお越しになっているんですか?」
せっかくだから、ここは案内して頂くことにしよう。

・今川義元はここに陣を張っていた訳ではなく、少し離れた標高のある地だったのだろうと言われている
・大高城を囲む織田方の丸根・鷲津砦は既に陥落、今川義元は余裕綽々で大高城に向かっていた
・縦2列で進む今川軍本体の先鋒に対して、桶廻間村近辺で佐々政次(佐々成政の兄)、千秋季忠(熱田神宮宮司の息子)が襲撃、これで今川軍は全体が停止
・今川軍が先鋒の救援に注力するなか、佐々政次は自分が織田信長であると名乗りながら戦って討死、今川軍は「信長討ち取ったり」と戦勝ムードに
・ここを織田信長本体が急襲、義元本陣は先鋒救援で手薄になっていたことと、既に勝ったようだという油断のなかで、義元本隊が崩れて敗走、この地で討ち取られた。

石碑を巡りながら、こんな主旨のことを説明して頂きました。

「桶狭間古戦場伝説地」のすぐ横には高徳院という立派なお寺、昔からある訳ではなく、1894年に高野山から移転してきたとのこと。
このお寺の中には、松井宗信の墓があるんです。

松井宗信って誰? 誰でもそう思いますよね。
今川義元の尾張遠征に従軍した武将で、義元本陣の前備えに配置されていたとのこと。

義元と共に討ち取られてしまったんですけど、宗信と共に従軍して生き残った親族が「この辺りで討ち取られた」と証言したことでここに墓があるらし。

この話を聞いて、松井宗信の墓は信憑性が高いなと。
松井宗信の墓がここにあるのなら、今川義元もこの近くで亡くなったんだろうなと納得。


自分で碑を読んで回るより、ガイドさんの話を聞く方が圧倒的にわかりやすい。
予定よりちょっと時間を要してしまったものの、充実感たっぷりで次の目的地、有松に向かうことにします。

丁寧にご案内頂き、ありがとうございました。




【おまけのワンポイント】
・ボランティアガイドさんが「奇計 桶狭間合戦の真実」という本(大田 輝夫著)を販売しており、500円とのことで購入してきました。この本、なかなか面白いんですよ。

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