・休日の午後、ウォーキングがてら御茶ノ水の『東京都水道歴史館』へ。江戸時代の高度な水道システムに驚きつつ、突如廃止された4つの上水の謎に遭遇。その意外な理由と、現代にも通じるインフラ管理の知恵に、東京の歴史の奥深さを学びました。
とある休日、この日の午前中はあいにくの雨模様。
ウォーキングは午後からにと思っていたんですけど… いざ雨が上がると、今度は強烈な日差しが照りつけます。
ただ歩くだけでは熱中症のリスクもある。
よし、都内にある小さな博物館を巡るちょっと知的なウォーキングに出かけることにしようか。
いざ、江戸の水道インフラを探る旅へ
スタート地点は、JR御茶ノ水駅。
ホーム上階に新しい通路が完成してから、初めてここを通ります。
狭いホームに乗降客も多い駅、この通路は安全対策に大きく貢献してくれることでしょう。
こういうインフラの進化は、見ていてワクワクしますね。
御茶ノ水駅からを5分ちょっと歩くと、目的地の『東京都水道歴史館』に到着。
以前、名古屋で同様の水道博物館を訪れて非常に面白かったので、東京の水道史もぜひ見てみたいと思っていたんです。
いきなりの謎、消えた四つの上水
館内に入り、まずはおすすめされた2階の「江戸上水」フロアから見学スタートです。
江戸時代の上水といえば、歴史の授業でも習う「神田上水」と「玉川上水」。
この二大上水のみだと思っていました。
展示パネルを見て驚き、え、あと4つも上水があったの?
千川上水、三田上水、青山、亀有上水…聞いたことがない名前ばかりです。
そしてさらに驚いたのが、その4つの上水が、いずれも1722年に廃止されたという事実。
人口が減ったわけでもないだろうに、一体なぜ?
大きな疑問符を頭に浮かべながら、次の展示へと進みます。
地名の由来と、驚きの木製水道管
これは、地名の「水道橋」の元となった、神田上水を通すための水道橋(懸樋)の模型。
川の上に、さらに水を渡すための橋を架ける。
江戸の土木技術の高さが窺えますね。
江戸市中の地下に張り巡らされた、木製の水道管。
石や檜の四角い「木樋(もくひ)」を組み合わせて作られていたそうです。
現代の水道管とは全く違うものの、これもまた先人の知恵だと感心。
四上水廃止の真相とは?
お、先ほどの四上水廃止の謎について、解説がありました。
- 江戸の人口は元禄年間に100万人を突破し、神田・玉川上水だけでは足りず、新たに4つの上水が開設された。
- しかし、享保七年(1722)、八代将軍・徳川吉宗の治世下に、この四上水は突然廃止される。
- 廃止理由は不明とされているが、儒学者・室鳩巣が提出した建議が影響したという説が有力。
その建議の内容とは、「地下を走る上水道が、江戸の地脈を分断して火災を誘発する」というもの。
地脈? それって、風水の話?
そんな非科学的な理由で、都市の重要インフラを止めてしまうなんて…
現代の感覚からすると信じがたいものの、当時は中国から伝来した風水もまた「科学」の一つとして捉えられていたんでしょう。
歴史の面白さは、こうした価値観の違いに触れられる点にもあります。
この上水廃止をきっかけに、江戸では掘り井戸の技術が進歩したのだとか。
時代劇でよく見る、長屋の井戸端会議の風景も、こうした歴史の上に成り立っていたんだなと、妙に納得してしまいました。
江戸の水道マネジメントシステム
この時代の水道は、自然の川が水源。
なので当然ながら、水量は一定ではありません。
そこで、幕府は「水番屋」という施設を設け、水番人が水量調整や水質管理、見回りを行っていたそうです。
さらに、この高度なインフラを維持・管理するための費用は、利用者から「普請金」や「水銀(みずぎん)」といった形で徴収していたんdとか。
まさしく、現代の水道料金システムそのもの。
江戸時代に、これほど洗練されたインフラマネジメントが行われていたとは、驚きの一言です。
今日の記事はここまでにしてと。
明日はこの続き、地名を東京と変えてからの水道史について書きますので、どうぞお楽しみに。
【おまけのワンポイント】
・今回紹介した玉川上水は、その一部が現在でも緑道として整備されており、人気のウォーキングコースになっています。歴史館で学んだ知識を頭に入れながら、実際に上水の跡を歩いてみると、江戸の人々の暮らしをよりリアルに感じることができそうです。
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