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2022年1月25日火曜日

【旅行】甲府城を巡る闘いは、新選組分裂の始まり

【この記事のポイント】
・甲府城は、豊臣秀吉の時代に徳川封じ込めのために築かれた城
・幕末には新選組と板垣退助率いる新政府軍とで、甲府城を巡る戦いが行われている
・甲府から躑躅ヶ崎館跡までは2.5kmほどあり、歩けない距離ではないけどバスの利用が無難



昨日に続き、甲府城についてもう少し書いておきましょう。

甲府といえば武田家の本拠地、その時代は躑躅ヶ崎館が中心であり、甲府城は一条小山と呼ばれた砦があったのみ。
躑躅ヶ崎館は盆地の北辺で山を背にしていたのに対し、甲府城は街道近くの平山城、時代の変遷で変わっていった城の機能の違いがよくわかります。

当初築城したのは豊臣秀吉の家臣、加藤光泰と浅野長政・幸長。
徳川家康を関東に移封していたので、甲府は徳川封じ込めの重要な拠点だった訳ですね。

この城は幕末にも歴史の舞台として登場してくるというのは、以外に知られていないかも。
甲府は江戸へのルートとして重要な地なので、幕府軍も新政府軍のどちらが制圧するかとう競争が行われたんです。

幕府軍は新選組、新政府軍は板垣退助率いる迅衝隊。
元々は幕府直轄地、江戸からも近いので新選組が圧倒的に優位なはずだったのが、甲府城を無血開城させたのは迅衝隊だったという結末。

これは新選組が道中の歩みが遅かったためで、近藤勇の出身地である府中で宴会のため一泊、八王子でも一泊している間に迅衝隊に先を越されてしまったんだとか。

新選組と迅衝隊は勝沼で衝突、兵力は130対1,200と圧倒的な差があり、新選組は敗退。
その後の組織分裂の始まりは甲府城を巡る戦いからだった、ということになるんです。


さて、次は躑躅ヶ崎館跡に向かうことにしましょう。

甲府駅から北に真っ直ぐ伸びる道路が武田通り。
躑躅ヶ崎館跡には、この未知をひたすら真っ直ぐ行けばいいだけなので簡単なんです。

通り沿いの配電機器、描かれているのは武田二十四将。
有名どころは長篠合戦で戦死した内藤昌豊・馬場信春・山形昌景や、信玄実弟の武田信繁あたりか。

写真の横田備中高松(たかとし)は、村上義清との戦いで殿軍となり戦死した武将。
武田信玄の版図拡大初期を支えた一人ですけど、この名を知っているのは超オタクでしょうね。

躑躅ヶ崎館跡までは2.5km。
十分に歩ける距離ですけど、なだらかながらもずっと上り坂なので、バスを使うのが無難でしょう。

私は「ニッポン城めぐり」で別の城攻略のため遠回りして行ったので、30分以上は歩いたかなと。
その途中で観た民家のこの門、かなり立派ですよね。

もしかして、元々は甲府城にあった門なんじゃないか。(←そんな訳ない)
なんて勝手な想像をしながらのウォーキング、また楽しいものでしたよ。




【おまけのワンポイント】
・昨年、信玄ミュージアムで武田二十四将の総選挙を行ったんだそうで、1位は真田昌幸。真田幸村の父親ですね。2位は山本勘助と、智将が選ばれる傾向があるようです。

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