・八丁堀から東京駅、有楽町へと江戸時代の痕跡を探る歴史探求ウォーキングへ。与力同心屋敷跡や八重洲の由来に加え、意外な場所にひっそり残る北町・南町奉行所跡を発見。
昨日書いた『本の森ちゅうおう』訪問に続き、今回は銀座方面へ向けてウォーキングを続けます。
今日のテーマは、ズバリ「江戸の奉行所跡巡り」。
普段何気なく歩いている街に、どんな歴史が隠れているのか楽しみです。
八丁堀の旦那たちの面影
『本の森ちゅうおう』を出て、東京駅方面へテクテク。
すると、道端に「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」という説明板を見つけました。
おぉ、これがあの時代劇でおなじみの「八丁堀の旦那」たちの住まいがあった場所なのか。
説明板によると、与力(よりき)は徳川家の直臣、同心(どうしん)はその部下にあたる侍衆。
ドラマで見るような、着流しに羽織、懐手で十手を差した粋な姿で、庶民の味方として信頼されていたんだそうです。
与力が50人、同心が280人もいて、北町・南町の両奉行所に分かれて勤めていたそう。
気になる給料はというと、与力が知行200石、同心は30俵二人扶持。
100石がだいたい1,000万円くらいらしいので、与力は年収2,000万円。
そこから税金が引かれても、手取りは半分くらいはあったみたいなので、そこそこの暮らしぶりだったのかもしれませんね。
八重洲の名の由来を復習
さらに東京駅方面へ歩みを進めます。
東京駅の東側、八重洲地下駐車場の地上部分に、「平和の鐘」というモニュメントがあるのをご存知でしょうか?
正直、私もここは何回も通っているはずなのに、この鐘の存在をちゃんと意識したのは初めてかも。
そして、今回ここに来た目的が、この隣にある石碑。
「ヤン・ヨーステン記念碑」です。これも今までまったく気づいていませんでした。
ヤン・ヨーステンというのは、江戸時代のはじめ頃に日本にやってきたオランダ人。
イギリス人の三浦按針(ウィリアム・アダムス)と一緒に来日した人物です。
彼は徳川家康に気に入られて旗本となり、この辺りに住んでいたそう。
彼の日本名「耶揚子(やようす)」が、「八代洲(やよす)」になり、それが変化して今の「八重洲(やえす)」になったと言われているんだとか。
ちなみにヤン・ヨーステンは故郷に帰ろうとした途中、船が難破して亡くなってしまったそうです。
なんだか切ないですね…
え、こんなところに!? 北町奉行所跡
さて、江戸時代の町政を取り仕切っていた町奉行所。
北町奉行所と南町奉行所の二つがあったことは有名ですが、それぞれが北と南のエリアを担当していたわけではなく、月交代で勤務する「月番制」だったというのは、ご存知でしたか?
さらに、その奉行所が今の東京のどこにあったのかとなると、もっと知られていないかもしれません。
実は、北町奉行所があったのは…
なんと、東京駅のすぐそば。
八重洲北口、現在の丸の内トラストタワーN館あたりです。
毎日たくさんの人が行き交うこの場所に、あの遠山の金さんも勤めていたかもしれないとはねぇ。
ひっそりと佇む 南町奉行所跡
では、もう一方の大岡越前のいた南町奉行所はどこにあったのかというと…
数寄屋橋門の内、つまり今の有楽町駅の近くにあったそうです。
JR有楽町駅の中央広場、地下へ降りる階段の裏手に、ひっそりと石碑が建っていました。
これも、言われなければ絶対に気づかないような場所。
今まで何度もこの前を通っていたはずなのに、全く意識していませんでした。
まさに灯台下暗し、ですね。
おわりに
今回のウォーキングでは、八丁堀から東京、有楽町と、普段からよく知っているつもりの街を歩きました。
でも、少し視点を変えて、歴史の案内に目を向けてみると、知らなかった事実や意外な発見がたくさんあるもの。
与力・同心の暮らしぶり、八重洲の地名の由来、そして奉行所の意外な場所。
身近なところにも、たくさんの歴史が眠っていることを改めて感じた、面白いウォーキングになりました。
【おまけのワンポイント】
・南北の両奉行所は有名ですけど、1702年〜1719年に中町奉行所というのが設置されていたことがあったんだそう。設置の目的や職務内容は定かではないんだとか。
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