・武田信玄をも手こずらせた北関東の要害「箕輪城」へ。長野氏の栄華と悲劇の終焉。御前曲輪の古井戸が語る、戦国乱世の生々しい記憶。
榛名神社の厳かな空気から一転。
次に向かうのは戦国ファン垂涎の地、日本百名城にも数えられる「箕輪城(みのわじょう)」です。
車で35分ほど移動。
ノート e-POWERの静かな走りに身を任せ、武田信玄がかつて軍勢を率いて進軍したであろう道をトレースしていきます。
現代の防衛戦:歴史の前に立ちはだかる「熊」
駐車場に車を停め、いざ本丸へ…
と意気込んだ矢先、目に飛び込んできたのは風情ある石碑ではなく、看板の文字。
「クマ出没注意」と。
昨今の群馬県内では人里近くでのツキノワグマの目撃例が急増しており、農作物の被害のみならず人的被害も深刻な社会問題となっているんだそう。
まさか戦国時代の城跡で、現代のリアルな「難敵」に警戒を強いられるとは、歴史散策も命がけなのか。
気を取り直して、駐車場からほど近い「搦手口(からめてぐち)」から入城。
搦手とは城の裏門ですけど、箕輪城のそれは裏門とは思えないほど広大な造りです。
名門・長野氏の意地:信玄を退けた「関東の盾」
城の全体図を見れば、この城がただの城ではないことがわかります。
榛名山東南麓の平山城でありながら、広大な面積を誇り、複雑な空堀と土塁で幾重にもガードを固めた構造。
「北関東最強」と謳われたのも納得、まさに要塞というべき威容です。
二の丸から本丸へと続く道を踏みしめながら、かつての攻防戦に思いを馳せて。
この城を守っていたのは名将・長野業正(なりまさ)。
知略に長けた武将で、あの武田信玄の猛攻を何度も退けたことで知られています。
信玄に「業正がいる限り、上野(こうずけ)には手を出せぬ」と言わしめたというエピソードは、歴史好きにはたまらない酒の肴になるんですよね。
御前曲輪に刻まれた終焉のログ
業正亡き後、若き息子・業盛(なりもり)の代に武田の軍勢が城を包囲。
1566年、圧倒的な兵力差を前に、業盛はここ「御前曲輪(ごぜんくるわ)」にて、一族と共に自決して果てます。
これをもって長野家は滅亡し、箕輪城は武田家の支配下。
さらには織田、北条、井伊と支配者を変えていくことになります。
その悲劇の舞台には、松尾芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢の跡」の句碑が静かに佇んでいました。
また、足元にある深さ20メートルの古井戸からは、かつて長野氏累代の墓石が多数発見されたんだとか。
周囲を切岸や土塁で固めたこの中心部は、城の心臓部であると同時に、一族の意地と悲哀がアーカイブされた場所でもあるんですね。
写真の限界と「兵糧攻め」の予感
御前曲輪の北側に位置する大堀切は、見上げるほどの深さ。
せっかくなので堀底まで降りてみることにしました。
見上げる土塁はまるで壁のように聳え立ち、ここをよじ登って攻めることの不可能さを教えてくれます。
稲荷曲輪の堀も同様に凄まじい深さなんですけど…
いざ写真に収めてみると、う〜ん、立体感が全く伝わらないですね。
写真という2Dの世界の限界、あるいは私の撮影スキルト不足でしょう。
「まぁこの凄さは、現地に来た人だけがわかる特権だな」、なんて自分を納得させることにしました。
さて、広大な城内を歩き回ったおかげで、私の空腹メーターはそろそろにイエローゾーン。
息子も「低電力モード」に入っている様子です。
二人揃って、頭の中は「次の食事」のイメージがふつふつと。
このままだと、「兵糧攻め」になりかねないな。
よし、次の目的地、保渡田古墳群へ移動。
あそこで空腹を癒すことにするかなというところで、続きはまた明日。
【おまけのワンポイント】
・箕輪城は石垣をほとんど使わず、土を盛り上げた「土塁」によって守られています。一見、石垣より脆そうに思えますけど、実は関東の粘土質の土は非常に強固、崩れにくく、表面をツルツルに仕上げると登れないという特性があるんですよね。