モーションウィジット

2024年10月2日水曜日

【観光】深川散歩で見つけた歴史ロマン:松平定信の子孫が迎える苦難の幕末

【この記事のポイント】
・寛政の改革で有名な松平定信のお墓があるのは霊源寺、亡くなった年は1829年と明治維新のわずか40年前というのに驚き、子孫は苦難なかで明治維新を過ごすというのにもまた驚き



深川江戸資料館のお隣には、霊源寺という立派なお寺。

Googleマップを見ると、このお寺の中に松平定信の墓があるとのことで、せっかくなので拝んでいくことにしようかなと。

真新しい門、広々とした境内。
時がゆっくりと流れるような空間に、さぞ歴史があるお寺なんだろうと思いきや、開山は1624年と江戸時代になってから。

松平定信が亡くなったのは1829年なので… えっ。
40年も経たずして明治維新になるという年まで存命だったとは意外。



8代将軍徳川吉宗の外孫として1759年に生まれた松平定信は、幼少の頃からその聡明さを見せ、将来の将軍候補と目されていた。
しかし、政治的な駆け引きの中で、陸奥白河藩の養子という道を選ぶこととなる。

老中首座として活躍したのは1787年〜1793年まで、28〜34歳という若さだったにも関わらず失脚。
その後は白河藩の藩政に専念して1812年に53歳で隠居、70歳で死去という一生だったとのこと。

老中時代に行った寛政の改革については学校でも習うし、詳しくは数多ある書籍等をご覧頂くとしてと。
今回調べて興味深かったのは、嫡男の定永の時代に伊勢桑名藩に移封となった後の話。

松平定永の後を継いだ定和、次の定猷と短期間で代替わりした後、松平定敬が婿養子として第4代藩主に就任。
定敬は会津藩主の松平容保の実弟であり、鳥羽伏見の戦いでは会津・桑名が薩摩・長州と激突、敗戦したというのはご存知の方も多いでしょう。

上に書いた通り、松平定信の死去からわずか40年。
こんな短期間のうちに藩主不在のまま桑名城の無血開城にまで追い込まれるとは、松平定信も想像だにしなかっただろうなと。

そんな松平定信公のお墓を後にして、門前仲町の定番観光地の深川不動堂に…
そうだ、私の通う会社は大手町の平将門首塚の近くにあるので、お不動様にはお参りしてはいけないんだった。

そしてお隣の富岡八幡宮に。

宮司姉弟の日本刀殺傷事件があったのはいつだったか… え、2017年。
その後の新型コロナ騒動があまりにもインパクトがあったので、もっと昔のことのような気がしてしまいますね。

そんなこんなで、この日のウォーキングは江戸時代メインの楽しいコースでした。




【おまけのワンポイント】

- 松平定信と対になって語られる田沼意次は、紀州藩の足軽の家出身。二人の家格は大きく違っても亡くなったのは70歳、松平定信と同じだったというのは面白い偶然です。

0 件のコメント:

コメントを投稿