【この記事のポイント】
・奈良・平安時代の秋田城は蝦夷との最前線にあった大規模な古代城郭、「元慶の乱」では落城も経験していたとは
秋田城趾について初めて知ったのは、確かブラタモリだったような。
古代の水洗トイレがあって、大陸から来た人が使用した痕跡がそこに残っている、といったような内容でした。
秋田美人にまつわる諸説の一つ、大陸から渡ってきた民族が鼻筋が通って色白、背が高くスタイルも良い。
これを裏付ける証拠がトイレにある、なんてことも言っていたような気がします。
この日はあまり天気が良くなかったので、トイレは探さず資料館を観てみること。
秋田になぜ城が必要だったのか、誰に備えての城だったのか。
時代を奈良時代に遡ると、この頃は蝦夷といわれた東北固有の文化を持つ民族がこの地に住んでいました。
大和朝廷が東北を支配下に置く際、蝦夷を一気に攻め滅ぼした訳ではなく、長年にわたり共存していたというのが一般的な説。
秋田城はその最前線にあったという訳です。
前の記事にも書きましたけど、城とはいってもこの時代の城は柵で囲われたのみ。
中世の城のように堀や天守がある訳ではなく、政務のための建物に塀を巡らせたものです。
秋田城は平安時代の後半から機能を失い、江戸時代になるまでは場所もわからなくなっていたとのこと。
本格的に発掘が行われたの1972年になってからなんだそうです。
出土している特徴的な武具、非鉄製小札甲(ひてつせいこざねよろい)の再現。
小札というのは白い部分で、鉄製ではなく革であったようです。
軽くて動きやすい一方で、矢を防ぐことはできたんだろうか。
当時の武器はまだ未発達だった、ということなんだろうと想像。
秋田城の城壁は4mあったなんて記述に少々驚き、更には櫓も併設されていたとのこと。
ここに800〜1,500人の兵士がいたんだそうで、かなり大規模な基地であったことは間違いないようです。
「元慶の乱」というのは、平安時代の878年にあった蝦夷の反乱。
秋田城が攻撃され、官軍は鎮圧に苦労した末、武力ではなく話し合いで解決したとされているものです。
その後、鎌倉時代には蝦夷の異民族としての記録が絶え、蝦夷(えぞ)やアイヌに置き換わって今日に至るというのが歴史。
1,150年ほど昔、秋田にこんな歴史があったなんて全然知らなかったな。
屋外には、当時の建物が模型で再現されています。
人と見比べると、門も建物も高さがあったようで、これが当時の先進文化の証しだったのかもしれないですね。
この資料館、展示を楽しませて頂きました。
ありがとうございました。
秋田城趾歴史資料館
018-845-1837
秋田県秋田市寺内焼山9-6
開館時間:9:00~16:30
休館:年末年始(12/29~1/3)
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