地理的には筑波山の真北、最寄り駅のJR水戸線岩瀬駅から10kmほど離れており、ほぼ陸の孤島のような町。
ここにも城跡があって、「鬼真壁」と呼ばれる戦国武将がいた、なんてことはほぼ知られていないでしょう。
城跡は、本丸部分が体育館になっています。
この体育館の駐車場(無料)に車を停めて、いざ城内を散策。
全体図を見ると、四重の堀に囲まれたかなり大規模な城だったというのがわかりますね。
築城は1172年というから平安時代末期、この規模になったのは戦国時代でしょう。
江戸時代初期まで残り、藩主だった浅野家が笠間に転封になったことで1622年に廃城。
城跡と言っても、普通には草っぱらにしか見えないですよね。
ブルーシートが敷いてあるのは、ここが国の史跡で発掘調査が行われているから。
緊急性のあるものではないので、真夏の暑い時期は調査はお休みなのかな。
こんな草っぱらにも、一応ビューポイントなるものがあるんです。
よく見て頂かなければわかりにくいですけど、写真中央やや右に奥に向かって柵があってこれが土塁、そしてその右側に堀。
石垣もなく建造物もない、これで在りし日の景色を想像して萌えるのが城オタ。
虎口というのは城への入口、土塁が途切れているところには、かつては門があったはず。
その向こう側には堀、堀にかかる橋はそれっぽく木製。
遠くに筑波山を臨むここからの景色、城があった当時もさぞや美しかったんでしょう。
外郭には鹿島神社、勝負必勝の神様。
ところで、「鬼真壁」と言われた真壁氏幹はなぜ「鬼」なのか。
戦に強かったのはもちろん、長さ2mの樫の六角棒に鋲を打った武器を振るい、手勢と共に163の首を獲った奮迅ぶりを表しているんだとか。
まぁここまで言うと嘘っぽいものの、棍棒で戦ったというのは本当かも。
この時の敵方は、先日書いた戦国最弱大名の小田氏治。
そして戦のきっかけとなったのは、小田家の宿敵だった結城政勝の死。
結城政勝の跡を継いだ結城晴朝は、重量22kgもある御手杵の槍を作らせた武将なんです。
この地域では、あり得ない巨大な武器が流行っていたのか、鬼真壁に影響を受けて結城晴朝がこの槍を作ったのか。
この通路、城の攻め手にとっては地獄なのはご想像頂けますよね。
写真右手に門があって、そこを攻めようと通路を進むと急角度に右へ。
すると左側面には長い土塁、その上から敵兵が矢を射かけてくる。
右手には堀があるので逃げられず、守り手にやられ放題。
桝形虎口といわれる、直角を多用した防御設備の初期バージョンですね。
真壁城も小田城同様に平城、なので防御力は山城には劣るものの、堀も多く郭も複雑だったようです。
いやぁ、暑かった。
真壁の町は車で通り過ぎただけ、ここも江戸時代から変わらない町割りで、門や蔵など古いものがそのまま残っているんだとか。
ショップやレストランは見かけず、地味な観光地のようでしたけど、何かのついでに寄ってみるのも良さそうでした。
さて、もう一つの城跡に向かってというところで、続きはまた明日。
真壁城跡
茨城県桜川市真壁町古城467
0296-55-1111
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