「小山評定」ってご存知でしょうか。
時は関ヶ原合戦の2ヶ月前、上杉を攻めようとこの地まできた徳川連合軍に、石田三成が京都で挙兵したという一報が届いて。
さて、この後どうしようと協議したのが、小山評定という訳です。
「なんかさぁ、京都で石田三成が毛利を担いで大軍を組織したらしいよ。」
「まじっすか、ヤバいじゃないですか。」
「このまま上杉を攻めると、江戸とか占拠されちゃうかもしれないんだよね。」
「そりゃマジまずいっすね。でも西に引き返すとなると、背後から上杉が追ってくるんじゃないでしょうか。」
「まぁ秀康残しときゃ大丈夫じゃね、多分。ここに来ている武将は妻子を大阪に残しているし、西に引き返さないとむしろヤバそうだな。」
「はぁ、じゃ軍議開いて、西に向かうとしますか。」
まぁざっくりと、こんな感じの流れで召集。(←かなりいい加減)
徳川連合軍による上杉攻めは豊臣家の意向、まぁ会社の方針みたいなものです。
そこに新たな方針、形として石田連合軍ができた訳で、普通のサラリーマンならこれに従うべきですよね。
このまま徳川個人に従うは、すなわち会社に背くことにもなりかねず。
会社とは別の意思をもつ、徳川の派閥に入ることになる訳です。
そんな緊張感があるなかでこの会議を巧みに使い、徳川派閥を一気に巨大化したのはさすが家康。
石田連合軍との戦いに負けては元も子もないですけど、結果はご存知の通り、見事な勝利だった訳です。
小山評定の碑は、この写真とその上の2ヶ所。
市役所内は当時は城中だったと勝手に推測、そして須賀神社は江戸時代に入ってからこの地に移転したとのことなので、当時は城外だろうなと。
なので市役所内の方がその場所なんだろうなと思いながらも、もしかして評定は2回以上開かれて、いずれも正しいのかもしれません。
上杉攻めの兵力、数万人規模であったことは間違いなし。
多少は散らばるとはいえ、小山の町には諸国の兵が溢れていたんだろうな。
駐屯地としては、お寺も使われていたはずで。
当時の歴史が残っていれば、「ここには何処其処の兵がいた」なんていうのを売りにすれば、観光客も集まるんじゃないかなと。
観光地として注目されることのない小山ですけど、小山評定の歴史的な意義、祇園城の歴史など、いい素材はあると思うんですよね。
頑張れ、小山市。
なんてことを思いながら、結城に向かう水戸線へ。
1時間に1、2本というローカル線、でも編成車輌が意外に多いなと。
2駅先の結城に着いてからについては、また明日の記事にて。
【今日のワンポイント】
・小山評定碑のある小山市役所は、2021年春の開庁を目指して建て替え中。上の写真にあるような、垂れ幕が下がった超レトロな建物を見ることができるのもあと僅かなようです。
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