なので江戸時代は関東の水運の要、ここを押さえるため関宿城が建っていました。
今日では千葉県立の博物館があるものの、利根川治水で場所は若干変更、かつての関宿城の模型がこれ。
豊富な水量を活かし、堀を巡らせた大きな城だったということが見て取れます。
この関所は船のためのものだったそう。
厳しい船荷改があったそうですけど、当時は大量輸送といえば船。
江戸の街に武器を運び込んだりしないように、という意図ですね。
えらく丈夫そうな江戸川堤防沿いを進むと、説明板に遭遇。
えぇと、「関宿城大手門と城を囲む土塁:堀」…なるほど、ここが城の端で堀があって、写真の奥の方に大手門があったというわけか。
これが… ねぇ。
言われなければ絶対にわからないし、誰かが適当に立てた説明板であっても見破る術はなし。
暫く歩くと、関宿城跡の碑、ここが本丸だったのか。
利根川から少し離してあったのは、利根川が氾濫しやすかったから、ということでしょうね。
関宿城は戦国時代からあり、古河公方上杉家家臣の梁田氏の居城。
1565年・1569年・1574年と立て続けに3回、後北条氏に攻められたしたという歴史があります。
北関東は上杉謙信、武田信玄、後北条氏の力が入り乱れる地。
この間、大まかにいえば梁田氏は上杉謙信と同盟を結んでいてたものの、3回目は充分な援軍を得られず3万の軍勢に囲まれて開城。
北条氏にしてみると、そこまで執拗に攻めてでも欲しかった城、ということです。
そんな歴史に浸りながら、千葉県立関宿城博物館に到着。
史実とは異なる場所と構造ながらも、いかにもそれっぽい城。
チャリンコ族のお兄さん、ご自慢の自転車と城を撮っている様子。
微笑ましいですね。
内部は4層の展示室、梁田氏関する展示はほんの一部で、大半は利根川の治水に関するもの。
関宿城合戦についての解説も期待していたので、少々残念ではあるものの、それだけ治水の苦労は絶えなかったということでしょう。
建物4階に到着、床もピカピカで冷房完備。
人もおらず、やはり城は密回避には適した場所だなと。
えぇと、筑波山は…
あった、写真右手、雲に覆われて特徴のある山頂の形は分からずですね。
利根川の作り出す肥沃な大地を眺めながら、さて、利根川治水についても次の記事でまとめてみようかな。
【今日のワンポイント】
・江戸時代の関宿藩主は、老中に22名、京都所司代に3名が就いているそうで、別名「出世城」と呼ばれていたんだとか。石高は2万~7万と変動が大きいのは、飛び地が多かったせいでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿