機動力を活かして笠間に足を伸ばすことにしたんですけど、まずはその前にと、久々に結城城址に寄ってみました。
結城城、鎌倉時代から戦国時代末期までは結城氏の城。
徳川家康の次男、結城秀康を養子に迎えた後に越前に転封、以降は松平姓を名乗るようになり、結城姓は歴史の舞台から消えることに。
結城の地は一度天領となった後、家康母の生家である水野家をここに再興、幕末に至るというのが大まかな流れです。
水野家といえば、福山の始祖である水野勝成が有名。
その水野勝成が祀られているのが、本丸跡にある聰敏神社なんです。
福山城に銅像が立っているのと比べると随分と地味ではありますけど、1万8千石という小藩だったのでまぁ仕方ないですね。
私の父親、小学生の時までこの本丸跡に住んでいたとのこと。
本丸に住んでいるといっても、元殿様だった訳でもなく、勝手に住み着いたホームレスだった訳でもなし。
元殿様の水野さんに許可をもらって、建てた家があったらしいんですね。
「ここでよく遊んでいたなぁ。」
懐かしそうにそう語ってました。
本丸跡なのに、建物が何もなかったのは何故か。
戊辰戦争の際、藩内で佐幕派と勤王派が対立、城を奪い合うという事件があり、その際に建物の大半が焼けてしまったらしいんです。
藩主自ら自分の城を攻め落とした、そして官軍に落とされたんじゃなかったかな。
もう一つ、この城には埋蔵金伝説があるんですよ。
これがまた凄い。
・結城家の初代・朝光は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたときに従軍し、手柄を立てて平泉の黄金のほとんどをほうびにもらった。
・それは代々同家に伝えられてきたが、17代の晴朝のとき、徳川家康に狙われたため、現在の茨城県結城市から栃木県下野市あたりに広がる旧結城領のどこかに埋蔵されたらしい。しかし、徳川家康をはじめ、大岡越前守も掘っているし、さまざまな根拠によって発掘をする人は今もあとを絶たない。
・結城市にある晴朝が建てた金光寺というお寺の山門には、意味不明の3首の和歌や絵が彫り込まれていて、この謎を解けば財宝のありかがわかるといわれている。
日本の埋蔵金伝説
金額は2兆円弱、そのほとんどを褒美で渡すか?
そしてその金が400年後まで残っている、というのも不自然。
更には、その隠し場所をお寺の山門に彫り込むだろうか。
普通だったら、人にバレないように残すものじゃないかな。
全てにケチがつく訳ですけど、金額の大きさと埋蔵金ロマンが冒険心を掻き立てるんでしょうね。
根拠のない想像を一つ、埋蔵金に例えられているのは、紬なんじゃないかなと。
結城紬、奈良時代から続く高級織物。
これが結城家に財をもたらし、手に入れたかった徳川幕府は結城家を亡きものにする。
江戸時代以降は他の地域でも生産されるようになり価値は落ちたものの、近代になってブランド化、再びその名声を取り戻した、ということかなと。
埋蔵金を求めて、土を掘り返していた先人には申し訳ない想像ですけどね。
年に一度は行く親しんだ街、そんなところにもロマンありですね。
【今日のワンポイント】
・結城の埋蔵金は、徳川、豊臣と並ぶ日本三大埋蔵金の一つ。ここまで言われる結城家、よほど豊かだったんでしょうね。
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