食事を済ませて寒さも一段落。
よし、次は赤山陣屋に隣接していた源長寺に向かうことにしよう。
首都高川口線を渡るのは歩道橋。
比較的新しい道路のせいか、上を車がビュンビュン走っているとは思えない静かさです。
別の世界への入り口みたいで、心なしかワクワク。
源長寺に到着、赤山城北端の出丸からここまではそこそこの距離があって、当時の規模を足で知ることができたなと。
源長寺も、かつては参道が長い寺だったらしいですけど、今や宅地に飲まれて普通のお寺になっています。
お釈迦様の涅槃像、亡くなられたのは2/15だったのか。
説明板に書かれた文章がなかなか素晴らしかったので、一部を引用させて頂きます。
「中天にかかる月は煌々と釈尊の身を照らして、寂として声なく見守る弟子達からやがて鳴咽の声がおこリ、次第に慟哭へと変わっていった。このとき、風は死し、林の音は止み、流れは静まり、鳥獣は声を断ち、百花は同時に萎み、緑葉は一斉に赤ばみ、沙羅樹は低く枝を垂れた、と悲しみの様子を大般涅槃経には説かれている。」
どうやら源長寺のご住職が書かれたもののようですけど、悲しみの様子をドラマティックに表現。
源長寺は伊奈家の菩提寺で、1618年にこの地にあった古寺を再建したものらしい。
その後一時は格式高いお寺として権勢を誇ったものの、伊奈家の改易とともに没落、ここまでの復興したのは昭和の末期、30年ちょっと前のことなんだそうです。
伊奈家の墓、改易の関係で「代々の墓」という訳ではないらしく。
ところで、その改易の理由はというと、10代伊奈忠尊の時代、天明の大飢饉対策。
庶民の打ち壊しを防ぐために買い付けた米の代金を幕府に対して期限内に返せなくなり、延納を申請したが却下されたことでの幕閣との確執。
これを危惧した家臣からの家督委譲の連判状に対して、断固たる対処が幕府への訴えに繋がったこと。
裏には、幕閣の忠尊人気への危惧もあったという説もありますが、果たして本当かどうか。
まぁ引っくるめれば、庶民にサービスし過ぎてしまったのが原因なんですね。
源長寺を離れて、近くの新井宿子日神社、西新井宿氷川社に。
2つの神社は、かつての日光御成街道を挟んで向かい合っており、今でもその形が残っています。(写真手前が氷川社、奥が子日神社)
名前からご想像の通り、日光御成街道は将軍が日光参拝する際に通る道。
その両側に神社とは、有り難さ倍増だったんでしょうね。
さてと、次はいよいよ、鳩ヶ谷宿に向かうとするかな。
源長寺
048-284-1631
川口市大字赤山1285
0 件のコメント:
コメントを投稿