人形塚って、この変テコなオブジェは何だろう。
説明板を読むと、そうか、岩槻って日本人形作りが盛んな街だった。
オブジェは男雛と女雛、仲良く寄り添って「人」の文字。
なるほど、そう聞くと初めて、いいオブジェに見えてきますね。
唐突に現れた電車、「特急きぬ」って、名前は知っているけど… きぬ、きぬ… そうか鬼怒川、東武鉄道ですね。
1960~91年に使われていた1720系車輌だそうで、このデザイン、どっかで見たことあるな。
ネットによると、初代セドリックの縦列フロントライトに似ているとのこと、調べてみたら、あ、本当だ。
気になる方は、検索してみてください。
お城観に来たついでに、懐かしい車輌にまで出会えたのはラッキー。
さて、再び岩槻城の遺構に。
城の東端、岩槻橋から県道2号を西に歩くと、かつての主郭を通り抜けることになります。
まずは二ノ丸の石碑から、これは道路すぐ横で目立つので、すぐに見つかりました。
そのまま県道2号を歩くと、次は本丸が… ないな。
この近辺のガソリンスタンド内に石碑があったそうですけど、当のガソリンスタンドは閉鎖してしまったらしい。
石碑、石碑とそれらしき場所を歩いていたら…
ん!
いつの間にやら、民家の壁にかかる看板になっていたようです。
この民家が本丸、みたいな構図になっているのが少々面白い。
そして三ノ丸の石碑は、岩槻消防署太田出張所前。
今日では普通の市街地になってますけど、城だった時代はそれぞれが沼堀で独立した連郭、歩くことで大規模だったことが想像できます。
歩き回って、堀との高低差を唯一確認できたのが三ノ丸碑の西にある住宅地、浄安寺の裏手。
高低差は3~4mほどで、沼からこの高さを登るのは相当の難儀だったんだろうなと。
時の鐘は、大手門の外、高さはそれほどでもなく住宅街の中にあって、遠目にはわからず。
普通の住宅の裏庭っぽく忽然と登場、意外性がまた面白い。
今日の記事で歩いたところを地図に表してみました。
黒い線がそれで、連郭を横切ったことがお分かり頂けるかなと。
城址公園の土塁に続いてのマニアックな歴史散歩、意外に楽いものです。
【今日のワンポイント】
・岩槻城を築城したのは太田道灌。その後も太田氏の城でしたけど、北条家に奪われ奪還したり、当主の太田氏資が戦死して、北条氏房が太田氏を継承して城主になったりと、小田原征伐での落城前にも烈しい歴史があるんですよね。
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